葉子は、忘れられない旋律の残像を胸に抱えていた。薄暗い診療所の廊下で、懐中電灯の揺らめく光に足を踏み入れると、ロッカーの側面に淡い青の布がひらりと落ちていた。その下には、小さな点が等しく離れ、横に一本の線が走っている模様が並んでいた。刻まれた記号はただ一つ、「消えてほしい」だけだった。
布を手に取ると、古びた扉が軋んで開き、金子がそこに立っていた。蒼白い顔立ちで、同じ大きさのノートを抱えている。
「これ、見たのですか」金子は低く声を濁らせた。「布は遊び、見た者に何かが起きる」――
葉子は点と線に目を向け、暗号の欠片を示すものだと直感した。金子はノートを開き、淡く揺らめくインクで四辺に枠を描いた。「抜けたそれが消える、でも戻ってくる」――そう言いながら、布とノートを重ねた。
葉子は高まるざわめきを覚え、布をポケットに忍ばせたまま倉庫の扉を押し開けた。埃まみれの木の箱の蓋を上げると、そこは格子状に鏡が組み合わさった垣根が広がっていた。鏡面には薄く刻印が走っていた。「ここに映るのは、消したくなる対象だけ」――
葉子が垣根の前に立つと、彼女の姿が揺れ、布とノートが重なった輪郭が浮かび上がった。四辺の枠だけがはっきりと映り、ノートの最後のページに細かく刻まれていた。「この布は、誰かが小さな欠片を消すための道具だ。欠片は鏡の向こう側で彼女と重なると、また戻ってくる」
葉子は布を折りたたんだ。そのとき、鏡に映った映像はゆっくりと柔らかく揺れ、やがて形だけが垣根に残った。照明の向こうで薄暗くなり、廊下は静かに息を潜めた。
葉子は布をポケットに戻し、倉庫を後にした。垣根に残ったのは、折りたたまれた布の輪郭だけ――それは誰かが心に残した小さな印だった。
そして、葉子は静かに確かめた。自分の欠片は、消えても新たに現れると。だが、彼女が最後に垣根を振り返った瞬間、鏡の中の自分がゆっくりと溶け出し、空気の中へと消えていった。残されたのは、薄く光る布の影だけだった。