タイトル: 鏡の裏の診療室
――先生、私の本当の病名を教えて下さい――
診療室の扉が軋む。薄暗い壁には数字と丸が並び、数字が減るたびに丸は薄くなる。私は指で薄紙に触れ、言葉が出なかった。
先生は袖をまくり、静かに言った。「今、感じていることを言ってごらん」
胸の奥で記憶が揺れ、私はうなずいた。
机の引き出しからガラス瓶を取り出す。中のインクは赤く光り、先生が手のひらで温めると色が消えた。「時間凍結インク。熱で色が消え、凹凸が文字を映す」
瓶の熱が壁の紙に触れると、秒針が逆回りし、淡く文字が浮かんだ。「記憶散逸症」。
その瞬間、背筋に冷たい風が走り、金属の引き出しが滑り込む音が鳴った。鏡の奥から淡い光が漏れ、ゆっくりと形を成すと、白衣の少年が現れた。薄い白衣はまるで過去の自分の影を映すようで、目は遠くの自分を見つめていた。
「忘れたもの、映すよ」少年の声は低く、鏡の裏に細い光の糸が走った。その糸は時間の裂け目を指し、廊下の先に続く「忘却の通路」へと誘うようだった。鏡に映るのは、年老いた自分の白衣姿だった。
先生は続けた。「診断は外からの答えだけど、内側に隠れていることもある」少年は頷き、言葉を添える。「診断は、あなたが映すもの」
記憶散逸症の文字が揺れると、幼い頃の海辺で聞いた歌が遠くで響いた。毎朝、手帳のページが白紙になるように、今日の約束さえすぐに抜け落ちる――それは忘れかけた自分の一部だった。
鏡の中の私が微かに笑い、手を伸ばした。「本当の病名は、‘診断し続ける恐れ’だ」
光の糸がゆっくりと消えると、少年は鏡の裏側へと吸い込まれた。その背中を見送ると、私は瓶を握りしめたまま、鏡の表面が揺れ、はっきりとした自分の顔が映った。診断された名前だけでなく、失われた記憶の欠片を取り戻す勇気が胸に灯った。
「もう、過去に縛られない」――そう思った瞬間、白衣の袖が自分の手に重なり、私は次の「先生」になる道を選んだ。自分の記憶を受け入れ、同じ病に苦しむ人々に、忘れないことの価値を伝えるために。
部屋は再び静寂に包まれ、私はゆっくりと診療椅子に座り、目の前の鏡に向かって微笑んだ。
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